沖縄の街中に残る弾痕
今の平和な沖縄の風景を見ていると、かつて沖縄で凄惨な戦いが行われたことが信じられなくなるが、街中に今も残る弾痕を見ると、実際に戦争があったという事実を否応なく突きつけられる。しかしこれだけ凄まじい密度の砲弾を、撃ち込まなければならなかったのかと驚くほどである。
そんな街中に残る弾痕をまとめて紹介する。
伊祖城鳥居。おびただしい弾痕の跡が残り、激戦地だったことがわかる。
中城村津覇集落の塀。遠めだとわからないが、近づくと多くの弾痕がある。
中城村伊集集落の塀。大小さまざまな弾痕がある。
同上。
那覇市若狭の「台湾遭害者之墓」。明治31年に作られたもので、小銃の跡が複数残る。
南風原町津嘉山山中の御嶽の碑。昭和5年に在郷軍人班により碑が建てられたらしい。こんな小さな碑にも弾痕があることに驚く。
南風原町津嘉山集落の塀。大きく破損しているが玉そのものは小さいようだ。
同上。
豊見城市の
デークガーの水タンク。皇紀2600年(1940年)に作られた。つるで覆われてわかりづらいが複数の弾痕が残る。
神谷夏吉翁畜産功労碑。 皇紀2601年(1941年)に建てられたもの。表面が削られ綺麗に補修されている分、弾痕がより目立つ。
八重瀬町宜次の製糖工場煙突。煙突の先の方に大きな砲弾跡が見える。攻撃目標とされたのだろか?
大きな砲弾跡も残る。
糸満市大里の
カデシガー「灌漑整備記念碑」。昭和5年(1930年)に建てられた碑である。銃痕が「漑」と「整」という字を消してしまっている。
糸満ロータリー近くの三巓毛(サンティンモウ)公園の皇太子殿下御誕生記念の石碑と三巓毛改修費。昭和9年に建てられた皇太子(平成天皇)殿下誕生記念碑が大きく破壊されているのがわかる。
改修碑は戦争前に倒されたようだが、「巓」の字付近や台座に銃痕があるのがわかる。