沖縄本島中南部の石獅子(シーサー)

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シーサーといえば家の入口や屋根の上にいるというイメージがあるが、もともとは城門や墓の前や、集落の入口に設置されたのが始まりである。沖縄中南部の集落には今でも古いシーサーが残っている。多くのシーサーは集落の入り口の方向、あるいはヒーザン(火の山=八重瀬岳)を向いている。
 
地元の人々が製造したからだろうか、地域、集落により非常に個性があり、ユーモラスな石獅子も多い。
 
 
宜野湾市喜友名の石獅子群(集落を取り囲むように7体が残っている)
 
喜友名の石獅子1(宜野湾市喜友名2丁目3−12の西の路地)
 
長い間風雨に晒されていたためか、表面は溶けており、原型を留めていない。
 
 
 
喜友名の石獅子2(宜野湾市喜友名2丁目17−2の南の路地)
 
立派な台座に乗っているが、全体が溶けかかって、口くらいしかわからない。
 
 
 
喜友名の石獅子3(宜野湾市喜友名1丁目4−8)
 
民家の壁の上にひっそりと佇んでいる。このシーサーには案内板がない。
 
 
 
呉屋の石獅子 (西原町呉屋10:呉屋散歩道の入口) 集落の方を向く
 
小さな石獅子だが、石造の覆いに守られている。最近案内板が付くまでは、わかりづらい場所にあり、発見できなかったが、今では行けばすぐに見つけることができる。顔は人面犬のようにしか見えない・・・
 
 
 
 御茶屋御殿石造獅子 (崎山公園内:那覇市首里崎山町1丁目81近く) 製造1677年 八重瀬岳を向く
 
地元の人が作ったと考えれる集落の石獅子と比べ、完成度が非常に高く、迫力がある。琉球王朝の技師が製造したのだろうか。
 
 
 
 
与那原町新島区のシーサー (与那原町与那原513の近く) 
 
与那原町新島区、中島区の石獅子は鼻が非常に大きく、座っているという点で共通点がある。おそらく同じ人が作ったのだろう。
 
 
 
与那原町中島区のシーサー1 (与那原町与那原444の近く) 北を向く
 
周囲が駐車場となり、広場に、ちょこんとユーモラスな石獅子が座っているのは、少々シュールである。
 
 
 
与那原町中島区のシーサー2 (与那原町与那原471−1近く)
 
サルスベリの木が顔にもたれかかっている。顔は笑っているように見える。
  
 
 
与那原町上与那原区のシーサー (与那原町上与那原463近く) 八重瀬岳を向く
 
火の山(ヒーザン)と恐れられた八重瀬岳がもたらす火災から村を守るため、防火目的でつくられた石獅子。駐車場の中にあるが、大切に保存されている。
 
 
 
南風原町兼城の石獅子 (南風原町兼城98−1) 那覇市上間の方を向く
 
表面が削れてまるくなっており、原型を留めていない。
 
 
  
南風原町照屋の石獅子1 (南風原町照屋53) となりの集落にある本部のシーサーに対抗する目的で本部方面を向いている。
 
 
  
南風原町照屋の石獅子2 (南風原町南星中学校内) となりの集落にある本部のシーサーに対抗する目的で本部方面を向いている。本部には1匹しかシーサーがいないが、照屋は2匹で対抗したようだ。対抗する目的で作られたらしいが、表情は可愛らしい。
 
 
  
南風原町本部の石獅子 (南風原町本部145−7) 八重瀬岳を向く
 
照屋の石獅子が作られる基となった本部の石獅子。モアイ像のように顔が大きく、少々不気味なシーサーだ。
 
 
  
豊見城市高嶺のシーサー (高嶺公民館:豊見城市高嶺5−1) 南山グスクを向く
 
つるが絡み付いているのが、良い味を出している。前足が長く、アシカのようだ。
 
 
  
字南風原石彫魔除獅子 (南城市大里大里1766) 隣りの山を向く
 
前足が大きく、強そうなシーサーである。
 
 
 
糸数のシーサー (南城市玉城糸数1) 南南東を向く
 
表面が削れているが、それが故に可愛らしい。
 
  
 
与座のシーサー (糸満市与座184−1:与座コミュニティーセンター横) 北西を向く
 
  
 
小城のニーセー石 (糸満市小城) 小城集落の方を向く
 
妙に縦長で、シーサーというより、砂から顔を出したうつぼのように見える。
 
  
 
照屋の石彫獅子 (糸満市照屋142:照屋入口バス停前) 製造年はかなり古い 八重瀬岳を向く
 
  
 
富盛の石彫大獅子 (八重瀬町富盛:勢理城内) 製造1689年 八重瀬岳を向く 
 
銃痕が多数ある。沖縄戦で進撃する米軍とこのシーサーが一緒に写った有名な写真が残っている。
 
 
 
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