西原の塔 西原町翁長
 
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【場所】
県道38号翁長交差点から幸地方面に200mほど行くと、右側に西原の塔がある。
 
【駐車場】
西原の塔入口に2、3台ほど駐車することができる。 
 
【沖縄戦での戦闘】
1945年4月22日から5月3日かけて、歩兵第32連隊第1大隊伊東大隊(799名)と歩兵第89連隊第1大隊(799名)が小波津を主陣地として戦闘を行った。また、5月2日から4日にかけては、呉屋の山中で、独立第28大隊が戦闘を行った。西原の塔には89連隊、28大隊の慰霊碑がある。
 
【感想】
住民の47%が亡くなった激戦地、西原村。刻銘された戦死者の名と、多くの慰霊碑が胸を打つ。市町村としてこれだけ大規模な慰霊塔を立てているのは、西原町くらいである。
 
 
西原の塔入口。様々な碑の名が記されている。
 
 
 
 西原の塔。いつ訪れても千羽鶴が祀られている。
 
 
 
「戦没者刻銘碑」沖縄戦で亡くなった西原町の5106人の名が刻まれている。
 
 
 
「歩兵第八十九聯隊 山三四七六部隊 顕彰碑」
 
碑文を要約すると、以下のように書かれていた。
 
歩兵第八十九聯隊は昭和14年満州に創設され、北海道出身の兵が主に占めていた。
 
昭和19年7月聯隊主力は沖縄防衛の任を命じられ、昭和20年3月より80余日の永きにわたり壮絶な死等を重ね、連隊長金山大佐以下2600名あまりが玉砕した。
 
沖縄戦最大の激戦となった5月4日の第32軍総攻撃において聯隊は西原一帯で戦闘を行い、多くの将兵が亡くなった。
 
 
 
 
 「歩兵第八十九連隊 丸地大隊戦没者 慰霊碑」
 
 
 
 
 「独立二十八大隊(海上挺身隊)慰霊碑」
 
独立二十八大隊は昭和20年5月3日夜から4日の朝方にかけて呉屋の山を中心に米軍との間で激しい戦闘が行われ、多数の戦死者を出し、特に第一中隊「神田隊」は全滅した。
 
 
 
「石独立歩兵第十一大隊」
 
 
 
「平和の碑モニュメント」
 
 
 
 「字別戦争被災者数」 西原町の住民の47%が戦死したというのは、異常とすら思える。特に翁長の戦死者率は63%と凄まじい。
 
 
 
西原の塔全景。様々な慰霊碑が並んでいる。
 
 
 
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