嘉数高台公園の戦跡 宜野湾市嘉数
 
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【場所】
国道330号線を那覇方面から北上し、伊祖トンネルを抜け、ファミリーマートの手前を左折して500mほど行くと、左側に嘉数高台公園の案内板があり、それに従い住宅街に入っていくとすぐに公園がある。
 
【駐車場】
公園内に駐車場あり
 
【沖縄戦での戦闘】
沖縄戦最初の大激戦地となった。1945年4月7日から24日にかけて戦闘が行われた。この戦闘での両軍の戦死傷者の数は10万人とも言われる。日本軍は第62師団独立混成旅団(師団長藤岡武雄中将)に加え、歩兵第63旅団(旅団長中島徳太郎少将)、歩兵第64旅団(旅団長有川主一少将)など10万人近い兵士が投入された。10倍以上の火力をもつ米軍に対し、反射面陣地を利用して、白兵戦などにより善戦した。対戦車戦にも勝利したが、最終的には日本軍は前田高地方面に撤退した。
 
【感想】
沖縄有数の戦跡であり、案内板も多く、充実している。比屋良川の渓谷の背後にある高台で、沖縄戦で陣地とするならここしかないという場所であり、地形を含めて興味深いところである。西嘉数や比屋良川の戦跡も見学すると2時間はかかる。普天間基地の眺めも良く、オスプレイの飛行風景も見ることができる。沖縄に来たら是非とも訪れてほしい戦跡である。 
 
 
トーチカ…保存状態も良く、トーチカ内に入ることができる。トーチカ前部がかなり破壊さているが、それだけ砲撃が激しかったのだろう。トーチカの後ろに見えるのが、嘉数高台公園の展望台。
 
 
 
 
沖縄戦に向けて整備された普天間基地もある意味、戦跡と呼べるだろう。
 
 
 
京都の塔…広く、実に綺麗に整備されている。今でも慰霊に訪れる人が多い。それだけ大切にされているのだろう。46都道府県の慰霊塔の中、唯一、糸満市米須、摩文仁を離れた場所に位置し、沖縄住民のことも碑文に書かれているという点で稀有な存在である。
 
 
碑文より。昭和二十年春沖縄島の戦いに除して京都府下出身の将兵二千五百三十有余の人びとが遠く郷土に想いをはせひたすら祖国の興隆を念じつゝついに砲煙弾雨の中に倒れたまた多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶えない、とくにこの高台附近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈をきわめた。
星霜十九年を経ていまこの悲しみの地にそれらの人びとの御冥福を祈るため京都府市民によって「京都の塔」が建立されるにいたった
再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないようまた併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるようこの塔に切なる願いをよせるものである
昭和三十九年四月二九日
 
 
 
嘉数の塔…京都の塔の敷地内に嘉数住民を慰霊した嘉数の塔が立っている。
 
碑文より。昭和二十年四月一日 物量を誇るアメリカの大軍宜野湾に上陸す 迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣性にしてただ日夜肉弾また肉弾ここ嘉数の丘に玉砕す これ京都府出身の兵士 この時嘉数の人々は京都部隊を援助し時に乏しき食糧をさき また傷痍兵を助け 或いは輸送の任につき ついに軍務に服する者もあり戦死者出す 加うるに遠く異郷に征き戦歿して帰らざる者九十二名と併せて三百四十三名の犠牲者を出だせり 村民の過半数なり 同時に家屋百六十戸殆ど灰燼に帰す これひとえに本土防衛の使命観に殉じたる嘉数区民の至誠によるものなり いま万感の涙をのんで戦歿者の芳名を記し石棺に納め永久に英勲を称えこの塔下に埋蔵す われ等は戦争なき平和の波動を全世界に及ぼさんため最大の努力を傾注する誓をたてここに嘉数の塔を建立す
みたまのご冥福を祈ること切なり
 
昭和五十年六月十日
 
 
 
島根の兵奮戦之地碑の前におかれているのは島根の石だろうか。
 
 
 
 日本軍陣地壕…嘉数の住民も動員して掘られたという陣地壕。周辺にも数多くの壕口があったらしいが今では、ここ一カ所しかない。残念ながらふさがれており、中に入ることができない。
 
 
 
銃痕のある壁嘉数集落にあった壁を移築したものが展示されている。綺麗に整備されているが故に臨場感がないのが残念。
 
 
 
歩兵第272大隊慰霊碑・球14212下田部隊慰霊碑…嘉数高台公園から少し離れた西嘉数の樹林下にひっそりと碑が立っている。訪れる人も少ない慰霊碑。ぎのわんおもと園の入口に案内版が立っている。
 
 
 
 
 碑の裏に発起人の名が記されている
 
 
 
歩兵第272大隊慰霊碑・球14212下田部隊慰霊碑の入口
 
 
 
 
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