掩体壕 読谷村座喜味
 
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【場所】
沖縄県中頭郡読谷村座喜味2944の東100m。読谷村総合福祉センターのすぐ北の道を東に向かい、読谷体育センターのグラウンド裏、忠魂碑の立つ十字路に出る。そこを右にまがりすぐ左に曲がる未舗装の道を行くと掩体壕が見えてくる。
 
【駐車場】
掩体壕前までも車で行けるが、未舗装なので、あまりお勧めはしない。読谷村総合福祉センターの駐車場から、200mほどなので、そちらに置く方が良いだろう。
 
【沖縄戦での戦闘】
案内板によると以下のように書かれている。
 
「掩体壕は、旧日本軍による沖縄北飛行場(読谷山飛行場)建設に伴い、1944年(昭和19)に軍用機を敵の攻撃から保護する施設として建設されました。
 
証言によると、ドラム缶や土などでかまぼこ形の原型を作った上にコンクリートを流し、十分乾燥したところで中の原型を取り出すという方法で作られました。
 
読谷山飛行場は、1945年(昭和20)4月1日の米軍上陸の際に接収され、逆に本土への攻撃基地として使用されました。
その後、嘉手納基地の完成によって補 助飛行場となり、パラシュート降下訓練などが行われ、訓練兵が住宅地に降下するなどの事故が周辺で多発しました。
 
2006年(平成18)12月31日に全 面返還され、今後数十年かけて飛行場の敷地は整備され、その姿を変えていきます。
 
掩体壕はこの地が旧日本軍の飛行場であったという史実を伝えるとともに、 沖縄戦以後の読谷の歴史を見つめ続けた貴重な遺跡・建造物であることから、村では2009年(平成21)1月、史跡(沖縄戦に関する遺跡)に指定しまし た。」
 
なお戦後は、ながらく牛舎農機具を入れる倉庫として使われていたという。
 
【感想】
時を経た建築物は独特の存在感があるが、この掩体壕も不思議な貫禄がある。
 
 
 
草地の中に掩体壕が建っている。
 
 
 
落盤を防止するためだろう、鉄骨の支えがある。掩体壕の傍らには義烈空挺隊玉砕之地の碑が建っている。
義烈空挺隊とは、義号作戦(爆撃機が米軍が占領する読谷飛行場と嘉手納飛行場に強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に攻撃を行うという作戦)において、読谷飛行場に着陸し破壊活動を行った後、全滅した部隊である。12機が投入され、着陸できたのは1機のみだったという。
 
 
 
 コンクリートの厚さは、40pほどある。中はそれほど大きくなく、戦闘機は2機くらいしか入らないのではなかろうか?
 
 
 
中を除くと、老朽化のためだろう、屋根のコンクリートがはがれているのがわかる。
 
 
 
屋根の上には砲弾によるものか、凹凸がある。屋根の中ほどまで草が生えている。
 
 
 
掩体壕からは、忠魂碑が見える。
 
 
 
忠魂碑の逆側には新しい陸上競技場が見える。
 
 
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