「幸地グスクは、西原町の西部、幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上にある。この幸地グスクが乗る丘陵は南北に長く、本島の東寄りにあるが、この峰が分水嶺で、南方は首里方面へ、北方は中城方面につながる。グスクは瘤のような高地を中心として、その東西の低地に向かって伸びる尾根を利用して造られている。
グスク内の最高地点には現在祠が建てられているが、周辺を観察するための櫓台と考えられる。そこの北東下は、30メ一トル×30メートルほどの広さを持った曲輪となっている。この曲輪の北寄りには井戸があり、居住地化された場所であろう。また、西方から北西にかけても、幅が10メートルほどの削平地が数段造られ、居住地化されていった可能性が高い。
幸地グスクについて『遺老説伝』に「幸地グスクの城主は熱田子と呼ばれ、腕力も強く人々から懼(おそ)れられていた。熱田子は隣りの津記武多按司といさかいを起こし、その一族を滅ぼした。訃報を聞いた今帰仁按司は自ら仇討ちに出かけたが、熱田子の策謀にはまり、殺された。その後、今帰仁按司の息子4人が兵を挙げついに熱田子を亡ぼした。」と、記されている。
このグスクの注目すべき点は、峰の上を通過する「峰道」がグスク内を通過することにある。一種の関所的機能を持ち、戦時には道路を封鎖する目的で造られたと考えられる。幸地グスクは15世紀前半にでき、その後数十年間グスクとして、あるいは関所として、また戦乱期の後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性がある。」